概要
埼玉県秩父市(旧大滝村)に存在する鉱山跡と、その鉱山村。秩父鉱山は、日本で最も古い鉱山の一つとされており、古くは金、銀、銅、鉛などの鉱石が採掘され、日本の経済に貢献した。
周辺に鉱山村を形成し、最盛期には約3,000人の鉱山労働者とその家族が居住。そのため関連産業なども地域経済を支え、秩父地方の発展にも寄与した。
特徴
- 人口3,000名近い集落を形成し、社宅、保育所、小中学校、商店、飲食店などが整っていた。
- 銭湯や集会所、鉱山労働者が定期健診を受けていたレントゲン室(診療所)などが、閉山後も建物として長く残った。
- 秩父鉱山簡易郵便局が現存しているが、今は一時閉鎖の状態となっている。
沿革
1205(元久2) | 中津川の幸島某が、窪舎の裏山に発見。山岳修験者らが入山。 |
1596~1615 (慶長年間) | 金を発見。採掘が進み繁栄。 銀、鉄、銅、亜鉱などの鉱脈も発見される。 |
1764~1771 (明和年間) | 平賀源内が探索に訪れる。 |
1825~1854 (文政8~嘉永7) | 幸島喜兵衛が開発。 |
1907(明治40) | 柳瀬商会の柳瀬良三が、英国教授・技術者を招き調査、金鉱脈を発見。 |
1910(明治43) | 柳瀬商会が、赤岩抗を買収。秩父鉱山と命名される。 |
1914(大正3) | 第一次世界大戦の軍需により、鉄鉱山に転換。 大戦の終結後は不況へ。 |
1937(昭和12) | 日窒工業(株)(現在のニッチツ)に譲渡。 変電所、選鉱場などの建設に着手。3年後に本格操業を開始。 |
1952(昭和27) | 鉛、亜鉛鉱体を開発。 |
1959(昭和34) | 道信窪で、日本最大級の鉄鉱床を開発。 |
1965(昭和40) | 秩父鉱山の最盛期を迎える。 鉱山村には約3,000人の労働者とその家族が居住。 |
1973(昭和48) | 第一次オイルショックなど、経済情勢が大きく変化。 鉄の売鉱が不振に。 |
大気汚染の問題などから、選鉱コストが上昇。 海外輸入鉱石との価格競争に耐えられなくなっていく。 | |
道信窪での採掘、亜鉛系出鉱を終了。 石灰石や珪砂の採掘、加工に転換。 | |
1978(昭和53) | 金属部門の生産を中止し、非金属鉱山となる。 |
2000(平成13) | 珪砂部門の生産を中止。 |
2022(令和4) | 石灰石事業の終了に伴い、閉山。事業所、営業所を閉鎖。 |
この廃墟を見られる書籍
- 中田薫・中筋純(2005).『廃墟本』.ミリオン出版
参考文献
- 片山大輔・深堀清隆(2009).「近代産業施設としての秩父鉱山の特徴分析と映像アーカイブス化」,「土木史研究 講演集」Vol.29,pp.185~195
コメント